コラム

南アジアの麻 ―祈りと癒し、そして神々の息吹のなかで

By 2025年11月27日12月 28th, 2025No Comments

 麻と人類の物語(第4回)

― 南アジアの麻 ―

祈りと癒し、そして神々の息吹のなかで

南アジア――インド亜大陸は、麻が最も古くから“聖なる植物”として扱われてきた地です。
人々はこの植物を「力を与えるもの」「神々の恵み」「心を鎮める薬」として敬ってきました。
そこには、単なる薬草を超えた、人と神の深い交わりの物語があります。


■ リグ・ヴェーダに記された「神々の草」

UnsplashCrispin Jonesが撮影した写真

インド最古の聖典『リグ・ヴェーダ』(紀元前1500〜1000年頃)には、
麻を指すと考えられる「ヴィジャヤ(Vijaya)」や「バング(Bhang)」という言葉が登場します。
それは「五つの聖なる草」のひとつとして、神々が人間に授けた植物と記されています。

「神々は人に喜びと自由を与えるため、ヴィジャヤを地上に植えた。」
― 『アタルヴァ・ヴェーダ』第11章

この「ヴィジャヤ」は、後のサンスクリット語では「勝利」を意味します。
つまり、麻は「苦悩に打ち勝つ力を与える植物」として神聖視されていたのです。

麻の飲料「バング(Bhang)」は、シヴァ神への供物、また修行僧の瞑想を助ける神聖な飲み物として今も受け継がれています。


■ シヴァ神と麻 ― 苦行と恍惚の象徴

ヒンドゥー神話の中で、麻と最も深い関わりを持つのがシヴァ神(破壊と再生の神)です。
伝承によれば、シヴァは修行の途中で疲れ果て、森の中で麻の葉を食べたことで再び力を得たとされています。
以来、麻はシヴァの恩寵(めぐみ)そのもの
として信仰の対象になりました。

特に、ヒンドゥー暦の春の祭り「ホーリー祭(Holi)」では、
人々は「バング・ラッシー(Bhang Lassi)」と呼ばれる麻入りの乳飲料を飲み、
神への感謝と再生を祝います。

それは単なる陶酔ではなく、
「心を開き、神とひとつになる」ための儀礼的行為でした。

麻はここで、魂を解き放つ植物として位置づけられています。
(出典:The Atharva Veda, transl. by R. Griffith, 1895)


■ アーユルヴェーダ ― 医療としての麻の知恵

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インドの伝統医学「アーユルヴェーダ」では、麻は古くから『薬草(オーシャディー)』として利用されてきました。
『スシュルタ・サンヒター(Sushruta Samhita)』や『チャラカ・サンヒター(Charaka Samhita)』には、麻の使用法が具体的に記録されています。

麻は、

  • 痛み・痙攣・不安の緩和

  • 消化促進

  • 体の浄化(デトックス)

  • 精神の沈静

など、多面的な効能を持つとされました。
ただし、同時に「過度な使用は心を乱す」とも戒められ、精神と肉体のバランスをとる植物として慎重に扱われていました。

つまり、麻はインドにおいて単なる薬ではなく、
『身体・心・魂の調和をもたらす“神聖な薬草”』だったのです。
(出典:Dash, B. & Kashyap, L., Materia Medica of Ayurveda, 1980)


■ ネパール・ヒマラヤ ― 修行と麻の煙

ヒマラヤ山麓では、今でもサドゥ(修行僧)たちが火を焚き、麻を混ぜた煙を吸って瞑想に入る姿が見られます。

彼らにとって麻は、内なる神と向き合うための道具であり、自然と自分の境界を溶かす媒介でもあります。

「煙は、神の息。麻は、その香り。」
という言葉が伝えられているように、煙を通じて神と一体となる感覚は、古代の祈りの形を今に残しています。


■ 南アジアにおける「麻の本質」 ― 三つの側面

南アジアの麻文化は、他地域と比べて非常に多層的です。
そこには、次の三つの顔が共存しています。

  1. 神聖性(Spirituality)
     → シヴァ神の象徴。人と神をつなぐ植物。

  2. 医療性(Healing)
     → アーユルヴェーダにおける自然薬。身体と心を整える力。

  3. 祝祭性(Community)
     → ホーリー祭などでの儀礼的使用。人々をひとつにする喜び。

この三つは、いずれも「麻=調和」という根底の思想に結びついています。
麻は、心と身体、自然と人、神と人をつなぐ「境界の植物」なのです。


■ 結び ― 「癒しと祈りの循環」

南アジアにおける麻は、痛みを癒し、魂を導き、そして祝福をもたらす植物でした。

それは、苦しみを断ち切る「破壊」というより、新しい命を生む「再生」としての破壊――
まさに、シヴァ神が象徴する“創造の循環”そのものでした。

現代の私たちが麻を手に取るとき、その布の中に、かつての祈りや癒しの記憶が静かに息づいています。

麻は、ただの素材ではありません。
人間の心と地球の生命を調える、古代からのメッセンジャーなのです。


参考・出典資料

  1. The Atharva Veda, translated by R. Griffith, 1895.

  2. Dash, B. & Kashyap, L., Materia Medica of Ayurveda, Concept Publishing, 1980.

  3. Abel, E.L., Marihuana: The First Twelve Thousand Years, Springer, 1980.

  4. Clarke, R.C. & Merlin, M.D., Cannabis: Evolution and Ethnobotany, University of California Press, 2013.

  5. National Geographic India, “The Holy Drink of Shiva: Bhang and the Festival of Holi”, 2020.