コラム

中東と地中海の麻–神殿と交易、文明を支えた繊維の記憶

By 2025年12月6日12月 28th, 2025No Comments

麻と人類の物語(第5回)

― 中東と地中海の麻 ―

神殿と交易、文明を支えた繊維の記憶

UnsplashのVictor Malyushevが撮影した写真

中東の大地――それは文明が生まれた場所であり、
麻が「神の贈り物」として扱われた最初の舞台でもあります。
肥沃な三日月地帯に芽吹いた麻の繊維は、
やがて帆となり、交易の道を開き、文化を運ぶ“糸”となっていきました。


■ メソポタミア ― 「神殿の織物」としての麻

古代アッシリア、アッシュールバニパルの図書館の楔形文字粘土板(写真:EBR、大英博物館)

紀元前8000年頃、メソポタミア、チグリス・ユーフラテス川流域で麻が利用された記録があります。
考古学者たちは、古代都市ニネヴェやウルの遺跡から、麻の繊維を含む布片や種子を発見しました。

当時の粘土板文書(シュメール語)に「 ašannû(麻)」という単語が登場し、神殿での供物や儀礼衣装に用いられたことが記されています。

(出典:J. M. Potts, The Archaeology of Elam, 1999)

麻は、神聖な場で使われる布――
つまり「神に近づくための衣」として認識されていたのです。

それは、後のエジプトやギリシアに見られる“白い布の神官服”の原型でもありました。


■ 古代エジプト ― 麻と亜麻、二つの聖なる繊維

https://hempco.net.au/the-history-of-hemp-fabrics/blog?srsltid=AfmBOorUyKOgPxKLjTGp9gK0i_R6eqChWenhx9Pq26UKvNpgUe3wK92V

古代エジプトといえば、リネン(亜麻布)が有名ですが、紀元前3500年ごろのナカダ文化の遺跡からは、麻(カンナビス属)の花粉と繊維の痕跡も確認されています。

麻は当時、

  • 船の帆や網、

  • 縄、袋、祭具、

  • そして医薬品の素材

として使われていました。

医学文書『エーベルス・パピルス』(紀元前1500年頃)には、麻を「女性の痛みを鎮める薬草」として調合する記述があり、既に医療用植物としても重宝されていたことが分かります。
(出典:Ebers Papyrus, trans. by Paul Ghalioungui, 1963)

また、ミイラを包む布にも麻繊維が混じる例があり、それは「生命の再生」を象徴していたと考えられています。

麻はここでも、人と神、死と再生をつなぐ聖なる繊維としての役割を果たしていたのです。


■ フェニキアとカナン ― 海を渡る「麻の帆」

フェニキア人(現レバノン周辺)は、紀元前1200年頃から地中海全域で活躍した交易民族です。
彼らの航海術を支えたのが、麻の帆と縄でした。

麻の繊維は湿気に強く、海塩にも耐える。この性質が、フェニキアの船団を「海の民」として地中海へと導いたのです。

彼らが運んだのは、

  • 麻の布や油

  • ガラス、紫貝染料、ワイン

  • そして知識と信仰

麻の帆は、文明そのものを運ぶ翼だったとも言えます。
(出典:K. A. Kitchen, The Phoenicians, 2004)

こうして麻は、「祈りの植物」から「交易の植物」へ――
地球規模の文化の流れを形づくっていきました。


■ ギリシアとローマ ― 実用と医療の融合

Dioscorides, De Materia Medica, Book III

地中海世界では、麻は日常と戦争、両方の場で重宝されました。

ギリシアの歴史家ヘロドトス(紀元前5世紀)は、「トラキア人は麻の衣をまとい、それは亜麻と見分けがつかぬほど精巧だった」と記しています。
(『歴史』第4巻)

また、ローマ時代には、麻は軍の装備品にも使われ、縄、弓の弦、帆、テントなど、「帝国を動かす素材」として不可欠でした。

医師ディオスコリデス(1世紀)は著書『薬物誌(De Materia Medica)』で、麻の種子を「鎮痛・止血・消化促進の薬」として紹介しています。
(出典:)

こうして、地中海世界における麻は、聖なる植物から、実用の知恵と医療の象徴へと姿を変えていったのです。


■ 麻が結んだ「文明の環」

中東と地中海の麻の歴史をたどると、次の三つの大きな流れが見えてきます。

  1. 神殿の植物 ― 神々への供物・清めの布としての麻

  2. 交易の素材 ― 帆・縄・布として文明を運ぶ力

  3. 医療の草 ― 痛みを癒し、命を支える自然の知恵

麻は、信仰・経済・医学のすべてを支えた“文明の土台”でした。
それは人類史の中で、単なる素材を超えた存在――
『文化を運ぶ「繊維の精神」』そのものだったのです。


■ 結び ― 海と砂漠を越えて、いのちは結ばれる

https://en.wikipedia.org/wiki/Ziggurat_of_Ur?utm_source=chatgpt.com

メソポタミアの神殿で祈る人々。
ナイルの流れのほとりで麻布を織る女たち。
フェニキアの港で風を受ける船の帆――。

それらすべてに、一本の麻の糸が通っていました。

それは、「祈り」「技」「交易」「生命」を結ぶ糸。
そして今、私たちが手にする麻の服にも、
その太古の記憶が静かに息づいています。

麻は、文明を超えて人と地球を結ぶ――
『永遠の“循環の繊維”』なのです。


参考・出典資料

  1. J. M. Potts, The Archaeology of Elam: Formation and Transformation of an Ancient Iranian State, Cambridge University Press, 1999.

  2. Paul Ghalioungui (trans.), The Ebers Papyrus: A New English Translation, 1963.

  3. K. A. Kitchen, The Phoenicians, Routledge, 2004.

  4. Dioscorides, De Materia Medica, Book III (1st century CE).

  5. British Museum, Egyptian Textiles in Antiquity, 2017.

  6. Clarke, R.C. & Merlin, M.D., Cannabis: Evolution and Ethnobotany, University of California Press, 2013.